vbnm1005の日記

恥をかき集めた

「小さな田舎」

 春から、東京のそれなりに大きな規模の会社で総合職として働いている。
 つらい。やめたい。けど、定年まで稼ぎ続けられる人間でいたいから、今の自分の生活を守りたいから。やめられずに、若い時間と心身の健康をすり減らしている。

 

最後に、私の今年の目標を唐突に述べて終わろうと思う。「トーキョー」を概念として捉えなくなること。「トーキョー」に吸い上げられた友達がはるか遠いところにいってしまった錯覚を、もう抱きたくない。でも私はやっぱり、「トーキョー」をしらずに死んでいく可能性の高い人間なのだ。 梅田よりも、新宿や渋谷はずっとずっと難しい。人にぶつかってしまう。立ち尽くしているときに声をかけてくる世話焼きな人もいない。

トーキョーとGW - vbnm1005の日記

 

 上記の記事で、東京という都市への実感のなさをつづってから、まだ2年も経っていない。ここで出てくる新宿やら渋谷は、もはや生活圏内である。今では、東京23区内に顔なじみになった飲食店も多くあるし、地名や路線を耳にするだけで相手の生活レベルをなんとなく察することができるようになった。なってしまった。
 それと同時に、東京が想像の都市とは違うことを察した。東京は田舎の対局的な存在として位置づくわけではないのだ。簡単な二項対立で物事は語れないというのを、散々大学院で研究したというのに、お恥ずかしい限りである。
 そもそも私は、丸の内あたりと池袋と、あとは歌舞伎町くらいしか知らなかったのだ。三鷹より西側とか、赤羽よりあっち側とか、駅から多少離れると東北の国道沿いとあんまり変わらない風景が広がっていることも知らなかった(まあ、そこから都心へのアクセスが良いから全然東北とは違うんだけどね)。まあ、風景云々は些末なことである。
 結局、東京だからといって、田舎的なものからから必ずしも逃れられるわけではない。会社で「小さな田舎」を作っているだけなのだ。地縁に由来しない田舎。組織という仕組みという宗教に入信することで完成する田舎。

 私は、田舎的な場所に行くと結局「変な人」になってしまうのだ。京都にいたとき、過去の話として語っていたはずの、社会不適応の状態にまた陥っている。
 しかもあのときとは違って、どうふるまえばいいか、という答えを知っているから余計にきつい。「普通」で居続けたいという強い意識が、自分の欠如している能力への解像度を無駄なほどにあげすぎてしまった。もう、道化で居続けるしかない。周りだけじゃなくて、自分も騙さなければいけない。
 さらに、嫉妬されうるほどの経歴を身に着けてしまったのは致命的だ。もちろん、そういった環境にいられたからこその出会いもあったし、自分の可能性を感じられたし、後悔はない。
 ただ、私のようにスペックにかなりの凸凹がある人間にとって、「オマエには無理だろ」的な雰囲気は、期待されない分居心地が極めて良かったのである。一番スペックが低い部分(凹部分)に合わせた期待値だと、凸部分が注目されたときに意外性も相まって評価もされやすい。逆の状況だと、なんでこんなこともできないのか、ということになりかねない。手を抜いているのではないか、とも思われうる。私としては、限界に近いのに。「普通」っぽく見せかけるためのふるまいと、ぱっと見の経歴のせいで、飄々とやりこなしていると思われやすいのもわかっている。
 自分ひとりの力で、自分自身の異常性を扱いきれる自信がなくて、なんだかんだでレールから逸脱したことはない。経歴にふさわしい能力だけを上手に見せてごまかしつつ、できないことを死に物狂いで頑張るしかないのか。
 私は、マイナスの部分をゼロ地点まで持っていく努力で人生を消費してしまうのだろうか……。

 横並び、金太郎飴的な人材、そんななかで私は不必要なスパイスになってしまうのだ。

 私がいる部署は、ブラックな環境ではない。むしろ、世の中的にみたら和気あいあいとしていて、ホワイトな環境なのだろう。
 だけど、日本の義務教育の管理型教育の成れの果てとでもいうべきなのか、宿題が大量の自称進学校的な空気ともいえばいいのだろうか、とにかく窮屈で気が狂いそうになる。雑音やら電話が多い自席で8時間座りっぱなしなのが耐えられない。時間に融通が利かないのも耐えられない。なんとなく常に監視されているのも、ちょっと工夫や努力をしても横並びゆえに揺りもどされるのも、とにかく肌に合わない。

 くだらないと一蹴して、躊躇なく離職しまえたら、楽になれるのだろう。
 もっと業務量自体が激務でも、在宅が週に何度かあったり、休憩時間が自由にあったり……。こういう特権階級的な環境を手に入れられたらもっとマシな状況になるだろう。
 だけど、そんなに簡単なことでもない。今の環境を捨てても、まともな収入を得られるのかといったら厳しいだろう。今付き合っている友達の多くは、大体ちゃんとした収入があるか、生活基盤がしっかりあるか、あるいは、どんな生活になっても自分自身がぶれないか。相手の懐事情をいやらしく蔑む友人はいないけれど、だけど、だからこそ、私が貧困状態になったら相手に気を遣わせるだろうし、どんどん話も合わなくなって疎遠になってしまいうるのではないかとも思う。なにより自分が耐えられない。

 会社のなかで随一の穏やかな部署にすら適応できず、TOEICは500点あるか怪しい人間なんて、どこにいってもどうせうまくいかないんじゃないかと自己否定、卑下の感情ばかりが噴出して、頭がフリーズする。

 怖い。どんどん体調が悪くなり、毎日理由もなく涙が出たり……。客観的に見れば一刻もはやく退職すべき状況まで追い詰められながらも、レールから外れられない。
 取り繕うことがうまくできなくなってきて、周りを困惑させているのもわかっている。私は道化がふさわしいのに。

 「小さな田舎」で酸欠になりそうだ。

 

 追伸:1年半前の私は予言者である。

田舎者にも適性ってもんがあると思う。(……中略……)私の「個性」に、身近な人以外は誰も関心をもたない環境にいたほうがたぶんいい。田舎に戻った友人たちが、ゆったりとした時間の流れのなかで、どんどん世界や思考を拡げ、充実している様子を見るたびに、私にはそんな才能がないということを否応なしに実感させられた。「個性的」が「異端」として処理されることになり、気づけばこの10年くらいの足掻きを無に帰すことになるだろう。

「田舎」と「個性」を捨てる - vbnm1005の日記

「田舎」と「個性」を捨てる

私は田舎者である。ただ、田舎に住んだことのある人間ならよくわかると思うのだが、「田舎」を定義する上では、結構段階ってもんがある。とりあえず、何かしらのコンサートや展覧会に行けなくてストレスをおぼえることが多い場所、というのをここでは田舎と定義してみようか。いや、そうすると東京23区、いやもっと範囲が狭いか、とにかく……ごく限られた範囲以外全部田舎になりうるな。

自分の住んでる環境より明らかに都会に住んでる奴に、「田舎に住んでて〜」と言われると腹立たしく思うのも、田舎モンあるあるなのかもしれない。先日五稜郭タワーのてっぺんで、都会だなぁ〜と眼前の風景を見下ろしていたとき、TシャツにGパンという服装ながら謎に垢抜けている生粋の都会人が、「田舎の風景って感じでいいね〜」と恋人らしき人に甘えていたのを目撃し、台パンをキメたくなったのが記憶に新しい。私がSDJのエス◎ルで買った一丁羅の1万円のワンピースは、都会人の上下1980円のユニクロにとうてい敵わないのである。

 

五大都市のどこかで生まれ、限界地方の県庁所在地の駅裏で育った。ああもうフェイク入れるのが面倒になってきた。ただ真の都会人の方が想像されるであろうのどかな田舎と比べると、かなり文明的な生活を送っていたとは思う。地元に広がるのは、よくある国道沿いみたいな風景。新幹線が通るのに合わせて開発されたエリアなので、京都のごとく碁盤の目状になっている。徒歩圏内でチェーン店の類いはすべて揃う。スタバもコメダも徒歩圏内。県で一番大きな図書館や美術館、大学などの文教施設は学区内かせいぜい隣学区。ローリーズファームやロペピクニックまでは揃う。でも、beamsとかノーリーズはない。シンプルな資生堂カネボウはあるけど、ローラメルシエやRMKはない。そんな感じ。日常生活だけする上では京都府上京区西陣エリアよりは遥かに便利なのである。クルマ社会と言われながらも、クルマなしで生きていけるほどだから(カルロス・ゴーンがhave goneしたせいでクルマが一台修理できなくなった)。外を見なければ、外を知らなければ、外と比較しなければ、満たされた暮らしができる。豚箱のような狭いワンルームではなく、庭付き一軒家に住むのも楽勝。

でも私は、ずっとここにいちゃだめだ、出なきゃいけない、と小学生くらいから意識していた。私の両親はあの街の人間ではない。ふたりはあの街に対するスタンスが違うとはいえ、私に対するメッセージは近いものがあったと思う。

たとえば、家族での買い物はSDJ。あとは、通販の駆使。高校生まで、あの街にないお店で全身かためていることに謎のプライドを抱いていた。とはいえあまりファッションに対する自我がなかったので、都会的な感覚をもつ母親に服選びを委ねていたんだけど。そして、そうやって人任せにしてたから、浪人〜大学前半くらいまで田舎の中高生みたいな雰囲気を纏う羽目になったんだけど。まあいいや、話が脱線してしまった。当時perfume が好きだったのもあって、ナチュラルビューティーベーシックあたりをよく着ていた気がする。20代安月給OLみたいな服装だったな。そして当時購入した服を、平気で今でも着ている。だって年相応だべ。父は、あの街からSDJまでの高速のオービスの座標を暗記している。高速を降りると、自然な流れでクルマが止められ、無言でソフトクリームにありつく。だってあの街にはミニストップがないから。ソフトクリームを食べながら、帰ってきたなぁ〜と実感する。そう、帰る場所はSDJ。

 

でもやはり、日常生活においては、あの陸の孤島のなかに閉じ込められていた。毎日東京やSDJとつながる新幹線の下をくぐっていたのにかかわらず、つながっている実感はなかった。基本的には非進学校、でも所属クラスだけは典型的な自称進学校、宗教系・良妻賢母系の窮屈な教育方針、触覚禁止という奇妙な貼り紙で埋め尽くされた校内、部活の休みは盆と正月とテスト直前だけ、オープンキャンパスにさえ行かせてもらえない部活の同調圧力、地元の国立大を目指すのじゃなぜダメなのかを説明できなきゃいけない学校の雰囲気、なのに最低でも旧帝でしょという身内の空気感、あなたはこのままだとロクな大人になりませんよという「大人」からの脅し、学習習慣皆無、授業中は脳内で音楽を流してやりすごすだけ、カンはあるから偏差値40はギリ切らない感じ、英語は中1レベルも怪しい(eatedとかseedとか書いてある高2の定期試験をこの間みっけちゃった)、なのにオーラル重視の授業のお陰かカンで中3か高1で英検2級は取れちゃう、大抵の科目のテストは全て同じ記号で埋める、社会科は大喜利、保健だけ勉強して避妊方法に詳しくなる(でも交通事故防止の単元で間違えて学年一位を逃したはず)、…そんな日常のなか、私のなかに色んな歪みが生まれていたように思う。あんまり覚えていないけど、毎日が怖かった。明日が来ないでほしいと思っていた。ヘラヘラ笑っていたんだけどねえ。これがThe思春期というヤツだったんかな。

 

そんな高校生のとき、部活をサボってSDJに向かったことがあった。だって、家の近くのバス停から広瀬通まで乗り換えなしだもん。もうあの街には、私という「ズレた」人間を受け入れてくれるキャパなどないという確信を胸に、「都会」に降り立った。んで、慣れた顔つきで買い物をしてみたり、夜のBNチョーもひとりで歩いてみたりもした。でもそれだけじゃなくて、実はなんと某予備校にも出向いている。その後一年を過ごすことになる、あの忌まわしいか忌まわしくないかよくわからないあの組織のアジトに、実は高校生の時に潜入済み。地元の旧帝大コースの無料体験イベントに行ってみたのだった。理由としては、自分の立ち位置を知りたかったというのが大きい。私がこの窮屈さから脱出する手段は、おそらく勉強しかないんだろうなって察していたから。ただでさえ学校のなかではそんなに上位でもないのに、自分の学校から行く人はほとんどいない高いレベルの大学を目指すことが無謀なのは知っていた。でも、一縷の望みにしがみついてみたいと思うほどには追い込まれていた。

さて、某予備校のBのほうの建物の形状(完全に内輪ネタ…)は、当時の私には意味不明だった。そんななか、入口に立ち尽くして困惑しているときに、なんか見るからに親切そうなおなごが通りかかった。「ごめんなさい、◎◎って教室どこですか?」……なんと、このとき意を決して話しかけた相手は、浪人時代を共に過ごし、さらにはいま、京都で同じ大学に通う友人Yなのであった。年賀状だけのやり取りが続き、入塾の手続きの日に再会するのはまた別の話。

こんな感じで、ちょっとの勇気と偶然の積み重ねが私の人生をつくっている。たとえばこの間は、10年以上交流を続けているインターネットの友人と新宿で飲んだし(でも私は軽い熱中症で死体になっていた、近々リベンジしたい…)、今度は中3のときに海外で意を決して話しかけた日本人の人とも東京で飲む約束をしている。

 

どこにいても、自分の知らない世界を知っている人と繋がり続けたいし、自分の外の世界と繋がっている実感を失わずに居つづけたい。でもそれって、とても難しいことだと思う。田舎者である、というのはその難易度をより一層高くする条件ではないかとも思う。場所が不便という物理的な問題以上に、心理的な障壁がずっとずっと大きな問題なのだ。身内に田舎思考があまりないとはいえ、田舎で育った以上私は簡単に田舎者に揺り戻るだろう。コンサートや展覧会が、身近で簡単に手に届くものだという認識を得るのにも、4年くらいかかったわけだしね。

田舎者にも適性ってもんがあると思う。私には全くない。目まぐるしい早さの街に住んで思考を溶かさないと、多分我に返ってしまって死ぬ。自省してはいけない。私の「個性」に、身近な人以外は誰も関心をもたない環境にいたほうがたぶんいい。田舎に戻った友人たちが、ゆったりとした時間の流れのなかで、どんどん世界や思考を拡げ、充実している様子を見るたびに、私にはそんな才能がないということを否応なしに実感させられた。「個性的」が「異端」として処理されることになり、気づけばこの10年くらいの足掻きを無に帰すことになるだろう。

 


私は田舎者であってはいけない。でも残念なことに、都会人には一生なれない。大統領になれないのと同じだな!ははっ!

つまり、「おのぼりさん」のいち会社員として、都会で足掻く人間として生きてみようかなと思っているということだ。この選択に至った要因の一つとして、自分の「個性」を好きになることはまだ難しいということがわかってしまったということがあげられる。これが、今年の2月まで長いこと引きこもってみたり、はたまた春からJGC修行とかいうアホみたいなことをしてみたりして到達した境地である。

私は東京で働きたい。大阪か京都かSDJかのどこかに住みたいなとはかねてからずっと思っていたけど。てかむしろつい3ヶ月前くらいまで、首都圏だけには住みたくないと思っていた。でも私は東京に行きたい。ひょんなきっかけから東京に慣れてしまった結果、田舎者特有の拒絶感みたいなのが払拭されてしまった模様。あれ、梅田とあんまり変わらないじゃん、郊外に住めば落ち着いてるじゃん、という素朴な感想を抱いた結果である。まあそれだけではないけども、言語化するまでもない要因なので、口はミッフィーで。

 


ちなみに昨日のフライトで、無事クリスタルに到達した。サファイアもこの感じだと無理なく達成できそう。自宅や実家などの拠点が、すべて空港アクセス1時間以上なのがちょいと腹立たしい。おそらく修行についてのブログを書いたら、ある程度アクセス数が稼げそうなもんだけど、身バレが怖いからやめておく。全部終わってから振り返り記事をあげるのはナシではないかなってとこ。

このダラダラした長文も、E170かE190でのフライトの時間に少しずつ書き溜めていたものである。ネットがあるところでは、もっぱら求職活動に勤しむしかないからね。

とにかくこの数ヶ月のことは、多分人生のなかで大きな意味を持ちつづけるだろうし、ずっと忘れられないんだろうな。飛行機に乗りまくり、オタ活を心ゆくまでして、遠方の友人を訪ねまくる、そしてその隙間に研究と就活をテトリスのようにぶち込む毎日。こんな生活は、多分もう一生できない。きっとあの時は良かったとか言い出すんだろうな。それを未然に防ぐために、研究と就活のプレッシャーのせいでそこまで常に楽しいわけでもないということは、記録に残しておこうと思う。天神で歩きスマホでESを書いたり、札幌の寿司屋で企業オンライン座談会を聞いていたり……でも正直、そんな私のことが結構好きになりつつある。

トーキョーとGW

来週木曜の発表準備が一向に進まない。仕方ないのでアウトプットのブースターとしてブログをしたためることにする。制限時間は40分とでもしておくか。

最近、自分のことを過大評価していたことを実感している。私はどうやら孤独に強くないようだ。どこにいっても楽しいことを見つけられるし、周りに誰もいなくても思い出を糧に生きていける、ネットさえあれば問題がないタイプと思っていたんだけどな。
結局のところ、感想を言う相手がいるから生きられていただけなのだ。関西から友達がどんどんいなくなり、周りはカレンダー通りに生きるようになる&家庭や仕事で満ちたりしているなどライフステージが変わっていくしで、勝手に距離を感じてしまう。いまだに名実ともに青年期に取り残されている私は、埋められない感情と向き合わなければならない時がきたのだろう。

大学受験に失敗し、しぶしぶ京都にやってきたのがもう5年以上も前のことになる。実家がある限界都市からも、ゆかりのある政令指定都市までも、それぞれ約700km以上。知人は数人しかおらず、人生初京都は家探し、歴史にも古都にも興味なしという、文字にするとなかなか絶望的な状況だった。しかも私のドンくささが原因で、引っ越しの手伝いにきた家族とは喧嘩別れしたまま一人暮らしをスタートさせた。
でもその翌日には、マイペースな暮らしに魅了されていた。市バスの路線図を片手に京都の地名を片っ端からおぼえてみたり、さらに実際におりてみたりもしたと思う。四条烏丸で降りて、今は亡きジュンク堂に赴き、大学受験の参考書コーナーに吸われたのが記憶に新しい。ちなみに初梅田のときも、茶屋町ジュンク堂に赴き、同じようなコーナーに出かけた。まったく、つまらないことをしていたな。といいつつも、この間ライブの帰りに茶屋町ジュンク堂に寄ったとき、専門書やら新書やらのコーナーにいた。結局根本はなんにも変わっていない。リラックスしたかったのな。本屋でオンオフつけられないのはいたいのでは?
その時点で新しくできた友達は誰もいなかったけど、人恋しいとかはあまりなかった。その後も進学先の私立大学の雰囲気にはなじめなかったものの、浪人時代の友人に文句を垂れ流していたら、次第に馴染めないことに慣れた。とはいえ結局、数人の親友に恵まれたし、2週間足らずで国立大のインカレサークル(テンプレ陰キャ集団)に居場所を見出せたし、結局GW前には寂しいかどうかも意識しなくなったと思う。
自身のことを地方から進学してくる女子大生のテンプレにははまらないことを確信し、自分の力で生きていく道を選びたいな、と漠然と決心したのはこのころのことでもあった。

さて、そもそも私には故郷がない。
杜の都で生まれ、物心がつくかつかないかくらいのころに限界地方都市へ転居、浪人時代を再度杜の都で過ごし、そこからはずっと京都。限界地方都市は私の親類にとって縁がない土地なので、なんとなくずっと自分のことをよそ者だと思っていた。帰属意識はずっと杜の都にあったのかもしれない。ひとりで部活をさぼっていく先は、イオンでも駅前でもなく仙台だった。お年玉をはたいて、一人で片道3時間半の道のりを高速バスで出かけた。高校生のときは、夜のディズスト付近を普通に歩けるのが自慢だった。私はいなかもんじゃないんだ、という自負があった。でも今はそれ以上に、田舎のことをオリエンタリズム的な視点でとらえる都会の人も嫌い。ちなみに同様に、現場の人を馬鹿にするエリートも、エリートを鼻で笑う現場の人もどちらも嫌い。
結局私はどこにも居場所がないのである。故郷のみならず、とにかく帰属できている集団がない。これが孤独の最大の原因なのだろう。あらとあらゆる社会集団を相対的にみて、そこのノリに擬態して入り込んでいるだけ。妄信できる社会集団があれば、わき目もふらずに生きられるんだろうか。
でもそれってつまんなくない?私の研究の関心も、こういう生き方だからこそ着想できたものだし。いま親しくしている友達が、私の変な話を聞いてくれるかぎり楽しく生きられるはず。うっかり長寿になっちゃったらどうしよう。でも大丈夫、たぶん私は年下の友達をつくっているはずだ。
研究を深めようとすればするほど、この世界は所詮決定論的なもんなんじゃないか、と虚無に陥る。私がなにかに駆りたてられているのも、保守的な路線に揺り戻されようとするのも、それにあがくのも、全部予定調和なのかもしれない。核心に近づけば近づくほど、不安でたまらなくなる。そういえば師匠は、年を取ると諦めがつき、小さな希望を見つけられるようになると言っていたな。なにかにハマっている演技をしながら、悪態をついてバランスをとるくらいが「いい大人」なのかもな。洗脳はされたくないし、というかされる才能もないんだと思う。

東北を出て6年目、もはやふたつの地元に対して強く感情が揺さぶられることは少ない。昨日の続きかのごとく家に帰り、ちょっとした外出のテンションで日常へ帰っていく。家族ともこれといって特別な会話もしない。雑談はするけど、すぐ部屋にこもってしまう。あまりにも淡々としているせいか、昔はさみしがりやで可愛かったのにな、と家族は笑っていた。でも、上りの新幹線の車窓から見る仙台―名取間の風景や、飛行機の機窓でどんどん小さくなっていく限界都市の街並みをみているときに、私がどう感じているかなんてしらないでしょうね。

最後に、私の今年の目標を唐突に述べて終わろうと思う。「トーキョー」を概念として捉えなくなること。「トーキョー」に吸い上げられた友達がはるか遠いところにいってしまった錯覚を、もう抱きたくない。でも私はやっぱり、「トーキョー」をしらずに死んでいく可能性の高い人間なのだ。
梅田よりも、新宿や渋谷はずっとずっと難しい。人にぶつかってしまう。立ち尽くしているときに声をかけてくる世話焼きな人もいない。

以上、羽田新ルートの下の某公共図書館にて。ほら、概念じゃなくなっている。

手のひらのシャブ

最近、のどというか肺の調子が悪い。疲れるとヤニを吸うという悪癖がついてしまったためだろう……。でも、ほら!キャメルのベリーだから!毎日じゃないし!コンビニスイーツよりも頻度少ないもん!別に沼って感じじゃないから!そういえば、修論をかいていた友人も、休憩中にヤニを吸っていたな。
とにかく、私の喉は2年ほど前に風邪をこじらせて咳喘息になったときと似たような状況である。
はーいステロイドもらいにいきましょう!
時計をみると診療受付時間の15分前、自宅からは20分の距離にある病院……。ずうずうしく電話で待っていただけないかお願いをして、タイムアタック開始。
音楽を流す手間は惜しまない。

ここで愚かなのが私という生き物である。ショートカットをするために、裏道に自転車を走らせてしまったんだよね。
しかし、東西は西大路から堀川、南北は北大路から鞍馬口あたりに囲まれているゾーンはやばい。起伏も行き止まりもどぶ川みたいな細さの道など、とにかくわけわかんない要素がてんこ盛り。コロナのはやりはじめのころ、行き当たりばったりの散歩を繰り返したけど、結局いまだに自分に地図が身体化されていないエリアである。この街に住みはじめて6回目の春を迎えても、わりと新鮮な気持ちでわくわくする。
まあ、今はわくわくしている場合ではない。あれ、私は焦りとわくわくの区別がつかないのか。あまりにもギリギリ人間として極めすぎたので、ギリギリ時におけるメンタルの負荷トレーニングがばっちりなのだろうか。この間、結構ギリギリの電車でコンサートに向かっていた際、焦らない私に友達が焦っていたのも記憶に新しい。
おとなしく太い通りを北上しておけばよかったのに、行きどまっては適当に曲がり、細くなっては不安になり、というのを20分繰り返した。そしたら、奇跡的に病院の前についた。
まあ、いくらわけわからんゾーンであっても、碁盤の目の内側なのだから、いつかはなんとなるだろうけどね。西大路、北大路、東大路、七条の内側での挑戦なんて、安全柵の中で泳がされているようなものだ。ちなみにもっとわけわかんないところに行きたい気分のときは、とりあえず嵐電の沿線の方向に向かい、赴くままに曲がったり上ったり下ったりしながら嵐山を目指すのが私の鉄板コース。

シャブ……、白い粉…、いえ、吸入薬を手にしたあと、お気に入りのプレイリストをふたたび再生。
気温がほどよい。私のもやし生活に哀れんで恵みをもたらしてくれた祖母や、秋田に帰ったときにご飯をごちそうしてくれた恩師のご家族など、手紙を出したい人たちがたくさんいるなあとふと思い出し、堀川今出川ダイソーを目指すことにした。せっかくだからそこそこ上等な和紙に手紙をしたためたいところだが、そんな余裕などいまの私にあるわけがない。それに私の悪筆はどうせ和紙に映えない。
とりあえず北大路沿いに東を目指す。北大路通を西向きにすすむときは地獄だけど、今回は爽快爽快。途中、府知事選の演説をしている方を轢きかけたけど、うまくよけられたのでよかった。あーーーー、選挙は日曜日か。毎日期日前投票しなきゃなと思いながらも忘れて、ついに二日前となるに至ったのか。明日やろうはばかやろうですな。
イズミヤを過ぎたあたりを走らせているとき、コロナがはやりはじめて気持ちのおきどころがなくなった日(ただしパワーが有り余った日に限る)には、西大路ー北大路ー東大路ー今出川をジャージのままチャリで一周するくせがあったな、ということを思い出す。そのときの感情がいろいろ蘇ってきて、うわーーーーーーーと叫びそうになったので、振りほどくために右折。
ちょうど船岡山に沿ってカーブしている道に出た。おとなしく山に沿って下っていく。すると、帰省できなかった2021年の年越しの風景が浮かんできた。初日の出を一緒にみた親友は、もう京都にいない。
これから私はこの箱庭に取り残されていくのか、みんなはどんどん社会的責任を担って大人になっていくのに……、と最近の不安がまた脳裏にこんにちは。
ペダルに力を込めて、大宮通の1本西をくだる。途中で大宮通へ。電灯がいい感じだよね。セブンを越えてちょっとしたところで東へ。
堀川通に出ると風景が全然違う。田舎者が思う都会の街並みが広がっている。京都に家探しにきた日、この通りに面したマンションに住む中学の同級生の家を訪ねた。バスで太い通りを下って京都駅あたりのホテルに向かいながら、私はここで暮らしていけるのかなあと不安を抱いたのも思い出した。
あああ、不安を振りほどきたくてぶっ飛ばしてるのに、なんでまた不安な感情を呼び起こしているんだ。情緒がダメすぎるだろう。そういえば、今日は研究のやる気が出ず、事務作業とかをやろうとしてもやる気が出ず、ごみみたいな進捗のままとりあえず散歩に出たんだった。で、そのあとそういえばのどの調子がおかしいな…と思いはじめたんだった。
今日はダメな日だ。おとといの夜にオンラインオタ会で飲みすぎて、そっから調子を狂わせた。でも、ダメな日を愛せたら、たぶん自分のことを好きになれるはず。そして、ダメな日には必要以上に人に接触しないのが大事。昨日の夜、ちょっと心が乱れてしまったのを思い出し、また反省。ダメな日、ダメな自分を愛せるかボケーーーーー!そういう奴ってまじでどういうメンタルしてんだべか!?

ダイソーでこまごました買い物を済ませたけど、やっぱり便箋はそれなりにちゃんとしたやつのほうがいいなと思って、最近堀川通にできた大垣書店に行くことにした。
その前に、堀川今出川の第3象限でスマホをぶちまける。たくさん人がいるのに、みんな見て見ぬふり。人気者のオーラが出ていたら誰かが助けてくれていたのだろうか。自分の周りから人が引いていく恐怖に取りつかれているモードに入っているため、ますます卑屈になる。いい加減にワイヤレスイヤホンを買えという話でしかないんだけどね。
新堀川ビルディング。予想通りな感じ。予想通りなので、とりあえず別のプレイリストをかける。そして、予想通りのムーブをかまし、30分ほど滞在して家路へ。
ちょっと肌寒い。この寒さがほどよい刺激となって、今の私の気分には合っているのかもしれない。
もはや身体化されたルートをほぼ無意識にこぐと、千本通に出る。信号がないところを思いっきり横断。

さてここまででだいたい2時間弱ってとこ。
荒れた玄関をみると、ますます自分はダメな人間だなあ…と思えてしかたない。しかし、ここでヤニをふかしたら負けだ。
土鍋に具材をぶち込みつつ、きのこや野菜などを仕分けして冷凍。無心。今日の鍋も別においしくはない。でもまずくもない。
ちょっと掃除をして、お風呂。そんなにリラックスできなかった。そしてむしゃくしゃしてブログを書きにきた。
あれ、時間を足し算するとなんか1時間半くらい空白の時間があるぞ。私はたぶん人一倍ぼーっとしている時間が長いのだろう。燃費が悪い。

 

最近、どうも孤独に弱くなってしまった。満たされる経験をしてしまうと、もっともっとと渇望してしまうのだろう。欲張るな。足るを知れ。

ブログめんどいを正当化

あけおめ。いつぶりだよ。一応今のところは8月から止まっていることになっているな。しかもその前の記事は3月だし。ただ、メモ用の鍵垢(@インスタ、使い方間違っているよなと思う)にしたためた駄文を、校正(というか個人情報を排除)していつかあげるので、おそらく空白期間もそのうち埋まると思う。

 

さて、なぜ急に更新しようと思ったのか。もちろん現実逃避である。明日の昼からの研究室の読書会のためにレジュメを切らなければいけないが、進捗はゼロ。そもそも、本すらろくに読んでいない。正常なアタマを持ち合わせていれば、このタイミングで長らくサボっていたブログを更新しようという気持ちにはならないだろう。しかしこれが私である。もうあきらめた。ギリギリにしか進捗をうめない不治の病を背負っている。

とはいえ、あるときまでは帳尻を合わせることすらできなかったのだから、大進歩だ。そのきっかけとなった出来事についても、いつかブログにしたためたいと思っているのだが、まあそれは次回の追い込まれ時にでも書くかな。あ、でも、2020年1月-2021年12月の2年分の各種ライブや展覧会の参戦記録まとめ記事も出したい。あと、水が飲めるようになった話も書きたい。過去を踏み台にする話も書きたい。んー、いろいろある。

書きたいことはいっぱいあるが、再びクソゲーであるラインポコポコにはまってしまったので多忙なのです!!! ちなみに修論追いこみ期の、隣の研究室の先輩もこの沼にいざなってしまった。しかしもとをただせば、約6年前のセンター直前期に招待してきた後輩が悪い。ちなみにその後輩もまだ沼にいる模様。ちなみに私は、年末年始もひたすらポコポコをしていたんだけど、あまりにもずっとポコポコをしているもんだから、祖母に「楽しそうだねえ、教えてよ」と言われてしまった。それに対して「これはね、無料パチンコみたいなもんだよ。やめときな」と返したので、最低限孫としての責務を果たしたと思う。

 

最近は、研究について考えることが多い(研究を頑張っているとはいえないけど)。ただし、自分自身の専門にまつわる記事を書く予定は今のところない。というかむしろ避けたい。身バレとか以上に、ネットの海に放流するにはまだまだ浅学すぎるからさすがにちょっと…という気持ち。私は某ソフィスト的なマインドは持ち合わせていないので。

とはいえ近ごろなにかを考えるとき、研究で身につけた概念が無自覚にベースになっている感じがする。そもそもどこまでが「その界隈の人たちが内面化しているもの」なのかがだんだんわからなくなってさえいる。だから、ブログを書くのが難しくなっているんだよなあ。はーーーい言い訳です。

こんなことを話してると学部生のときに読んだ、千葉雅也(2017)『勉強の哲学』を思い出す。当時は生協でめちゃくちゃごり押しされていたから、ミーハー心で読んでみただけなんだけどね。なお、私は彼にカブれているわけではない。田舎から上洛したての頃、キラキラしながら受け止めた思い出とともに印象深くなったのである。思い出補正、というやつか。

 

書きたい内容の前書きのつもりでしたためた文章でしたが、1000字を超えてしまったのでここでいったんしめます。目的を果たせず終了。はー、いい加減レジュメ作るか!3時には帰宅したいな!

ところで、こんなときにきくJJのアルバムはいいな!

国宝展@京博に行った(2021/8/10)

2週間くらい前に京都国立博物館の特別展に出かけた。半券の写真でも載せておこうと思ったんだけど、私様のご尊顔☆がご反射なさったら大変でございますから(自敬表現)やめておきます。

観にいったのは、「特別展 京(みやこ)の国宝―守り伝える日本のたから―」。期間的に前期展示にあたるはず。

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京都国立博物館「特別展」紹介ページより(最終閲覧日:2021.08.24)

 

しかもなんと、休館日の特別開放日に行けた。友人がペアチケットを当てたものの、同行者がいけなくなったとのことで声がかかったのだ。たまにはいいことがあるもんだ。

指定された入場時間につくと、もうかなりの人が館内にいた。おそらく、人によって指定された時間が異なっていたと思われる。順路に従って長い列ができていて、こりゃあイライラするかもなあと思ったけど、その心配は杞憂だった。我々の後ろにいる人々がじわじわと追い越してゆくのである。こりゃあ好都合。
そんな感じでじっくり見れたんだけど、私は序盤の近代の文書でパワーを使い果たし、後半は空腹も相まって集中力が切れ気味だった。序盤は「流し気味」でいくべきだったのだろうか。いつも私は美術館や博物館、コンサートなどに出かけると後半のいいところでエネルギー切れを起こす。頭の筋トレが足りないのだろう。そして大抵、建物を出る頃にはジャンキーなものがどうしても食べたくなる。素敵な芸術作品に触れたあと、フレンチや懐石料理♪とはいかない。

ラッキーなことに同行者もエネルギー切れを起こし、腹の虫が暴れているようだったので、七条のマックへ(私は絶対マクドとは言わんぞ!)。ポテトを無言でむさぼりながら、生を感じた。

鑑賞したモノよりも、こうした細部のことのほうをより鮮明に記憶している。まさに花より団子を体現しているような気がしてならないよおーー。「教養」あふれる「知識人」になんぞなれませんわ。おほほほほ。鍵括弧をつけて嫌味満載にしているあたりで、程遠さを物語っているんだけどさ。

あ、マックに行く前にポストカードを購入した。こういうところに出かけると、ポストカード買いがち。『阿弥陀如来坐像(來迎印)ー西林寺伝来ー』*1を数枚まとめ買い。よく見たら所蔵が京博だし、どうも常設展示の作品っぽいので、なにも今買う必要はなかったのかもしれない。しかし、なんというかビジュアルがドーーンという感じで非常によかった*2ので、私がライン不精すぎてしばらく連絡をとっていない人たちに送りまくろうという魂胆で購入。葉書って即レスしなくていいし、机に向かってなんか勉強しようとしたけどやる気がしないときとかにサクっとお返事かけるからマジでいいんだよ……。

あとは、自分用に『国宝 雲中供養菩薩像 北二十三号』(京都・平等院)を購入。こちらが今回のメインですね。11c、平安時代の作品らしい*3。これは、同行者が腰のくびれのところのゆがみに注目した面白い感想を述べていた作品。このポストカードを見れば、きっとこの日のことをいつまでも思い出せるだろう。

 

作品のことを語れる「教養」は皆無なんだけど、思ったことをひとつだけ。

モノだけ継いでも意味がないな、ということ。学芸員や研究者など、正しい価値を伝えられる人がいてこその「国宝」だと思った。こういった人々がいないと、鑑賞する側の能力にすべてがゆだねられてしまう。基本的な知識のある物事については、段違いの解像度で作品を享受できる。さまざまなヲタク活動においてもそうだね*4。そしてもちろん、すべての分野に明るいスーパーマンなんぞいるわけない*5

ファーストインプレッションとしての感動はもちろん大事だけど、それだけに任せておけばいいってもんでもない。たとえば今回私は、西陣織の柄のすごさがあまりよくわからなかった。わからなかったというより、生地屋さんに入ったときのときめき程度で終わってしまったというのが、正確な表現かな。模様?に関する知識が皆無だったため、込められている意味は到底わからない。そしてこのことに気付けたのも、同行者がこの分野に明るかったからだ。

せっかくほかの人類が何百年、何千年と生きてきたあとに生まれてきたのだから、先人の肩にのったほうがお得ではないか。同じ発見を同じようにしたところで、先人と同じ地点に到達するだけだ。

 

ああああああああああああああああああああああああああああああ。

ブログを書くエネルギーが切れてきたんでこのへんでおわりまーす。ロケットエンジンで発射して、すぐ飽きるタイプなんだよ!計画性がほしい!!

まあざっくり総括すると、同行者が博識だったのもあり、非常に良い時間を過ごせた。そのあとお茶して散歩して~っていう、なんかのんびりゆったりした素敵な一日だったな。まあふたりともスタートダッシュに成功したとは言い難く、バスに飛び乗ったけど。

*1:こういう作品名の引用って、正しくは二重山括弧だと思う。なんという雑なブログ。

*2:まじでブログやめちまえ、ってくらいの語彙力のなさだなあと我ながら思う

*3:ポストカードの裏面の説明から引用。ところで、裏面って「うらめん」じゃなくて「裏面」なんだね。去年の院試で注意事項が読み上げられたときにはじめて気づいたよ……。生きていると初めて知ることってまあまああるよね。その都度、誤用してしゃべっていた過去を思い出して赤面するのもいつものこと。たとえば、「幕間」もそのひとつ。大学の吹奏楽団で気づいた……暗黒の中高時代よ……

*4:2020年2月のPerfumeのライブのときにまったくしらない曲があったんだけど、あとから知人のヲタクに聞いたらすごく感激した。事後的にきいて、過去のライブ映像と見比べてもぐっとくるくらいだから、事前に知っていたら襲われる感情というのははかりしれない。映像重視になる以前のアルバムはすべて聞いている程度のニワカモンには知りえない背景知識だった。

*5:自称している方は信用に値しないね。昨今のソフィスト的な愚者が「教養人」として動画サイトで視聴回数を稼いでいる現状よ……。人々は歴史に学ばないというのも、繰り返される歴史のひとつだね。

阪急電車

昨今の情勢を鑑みて、用事がない限り大阪に出掛けなくなった。さらに、出掛けたとしても、京阪・JRのほうが都合がいいときばかりで、阪急にはもう長いこと乗っていない。

今日は久しぶりに阪急に乗って出掛けている。久しぶりの、阪急沿線の用事。

 

4年前、関西にはじめて上陸し、そのまま住むことになった。ごちゃごちゃした路線図とは無縁の生活をおくっていた田舎者なので、もちろん「おおさか」に遊びにいく発想が生まれるわけもなかった。そもそも、在来線で行ける距離感だとしらなかった。

大学1回生のゴールデンウィークのころ、大阪に住む知人に会うという目的ができたため、はじめて阪急電車に乗った。

緊張とドキドキが入り交じるなか、ホームで待っていると、高級感溢れる上品なデザインの電車が入線してきた。思わずわあ!都会!と感激し、写真を撮った。車内にはいっても、ふかふかの緑の椅子にビックリした。

そして電車を降り、待ち合わせの阪急百貨店の前でもさらなる感動が待っていた。天井高すぎ、シャンデリア美しすぎ…ここは間違いなく都会だ……!同じ方向へいくエスカレーターがずらりと並んでいるのにもビックリした。とにかくビックリした。

外に出ると、ドーーーンと大きなビルが何個も鎮座しており、その隙間をぬった道を早足で歩いていく人々で溢れかえっていた。

憧れの「都会」がこんなに近くにあるだなんて、というなんともいえない感情に襲われてたのを、意外と鮮明におぼえている。たぶん、それだけ衝撃が強かったのだろう。

 

車窓を眺めていると、様々な出来事が脳裏に浮かび、特急停車駅なら大抵降りたことがあるということに気づかされる。さらには沿線にだって思い出がある。たとえばスケートに行くときに、西京極まで自転車で出掛けたので、西院→西京極間は見覚えどころではない見覚えがある。高架の下に信号がなくて、西松屋あたりで大回りしなきゃならないんだよな。

 

もはや未知の土地ではなくなった車窓を眺めながら、4年前の感激を懐かしく思い出し、なんだか遠い世界に来てしまったのかもしれないなと思った。

ましてや10年前なんてなおのこと。

 

私はいまがいちばんたのしい。