vbnm1005の日記

恥をかき集めた

想像力と罪悪感

8月4日、レバノンの首都ベイルートにて大爆発が起きたようだ。例のごとく私は、その日も普通に1日中布団にくるまりながら非生産的な生活を送っていただけだった。だから、ツイッターで騒ぎになっているのをぼーっと眺めても、そうか…大変だなあ…ゴーンは生きているのか…?という陳腐な感想しか浮かばなかった。消費されるニュースの一部として無意識的に受け流そうとしていたのかもしれない。

でも、生々しい映像をみてからは、どうもそういった状態ではいられなくなった。火事のあとに起こった大爆発の瞬間、一瞬で崩れ落ちていく街並みをみてはっとした。そこには、その瞬間まで日常があったんだ、ということを実感して怖くなった。

 

 

 

私はいままで、運よく自分の住む街が根こそぎぶっ壊されたことはない。そのせいか、事件や事故、災害などで壊された街の、その以前の様子を実感したことはなかった。平和ボケしている私は、滅茶苦茶になっている場所の、滅茶苦茶になる以前に対する想像力があまりにも希薄だったのだ。

人一倍事件や事故などには関心があるほうだとは思う。中学に上がり自分の端末を与えられてからは、特に掘り下げていくようになった。でもそれは、ある種フィクションの世界を眺めていただけにすぎなかったのかもしれない。

というか、感じるのが怖かった。数年前、調布の飛行場から自家用飛行機が民家に墜落したときの速報ニュースで、黒焦げになった遺体がうつりこんでいたのを見てしまったときに、それをはっきり自覚した。私がいつ黒焦げになるかわからない。たまたま今黒焦げにならずにすんでいるだけだ。私の住む田舎は飛行機が1日に20本くらいしか空中を舞わないけど、それでもしばらくは飛行機が通ると心臓がバクバクした。

 

毎年、戦争体験記には目を通す。でも、いままではどこかで概念かのように感じ、遠い「過去」として悲惨な物語を享受していただけだ。そんなこんなで今年は、例年以上に精神的にダメージを受けた気がする。

単なる記号としての死者ではなく、それぞれの人生が存在していたこと。そしていつ自分が記号として哀れまれる対象になるかわからないこと。偶然生き残った人たちによって、我々の世代は存在している。もし爆弾が数メートルでもずれていたら、私の友達も、私も存在していなかったかもしれない。

平成から令和にかけてのいまの時代、飛行機が自分のもとに墜落してくる確率は、おそらく宝くじで超高額当選するよりも低い。そうであるのにもかかわらず、私は調布のニュースをきっかけに上空の飛行機にそれなりの恐怖を抱いた。戦時中は、飛行機が恒常的に爆弾を落としてくるものだという認識があったとするならば、私が抱いた恐怖とは比較にならないものに常にさらされていたのだろう。

 

しかし過去の人々と苦痛を比較することも野暮であるというのもわかっている。今が苦しいというのもまた事実だからだ。

また逆に、実際にいまも、自由に外出や飲食がままならず、実家に帰省することすらできないという世界におかれている。しかし、そのことにストレスを感じている実感はもてない。被害状況や生活はみんな違うとはいえ、「みんな同じ状況」におかれていると感じてストレスを感じることに対して抑圧されているからだ。

もちろん程度は全く違うけれど、戦時中に人々が我慢できていたというのは、そういう抑圧があったのだろうか、なんて考えた。

 

歴史の勉強が苦手だったけれど、いま勉強したらまた違った視点がえられるのかもしれない。でも、自分の少しだけもろい感受性が暴発するんじゃないかと怖くなる。こういう姿勢がダメなのだというのもわかっている。でも、自分を守らなければいけないとも思う。難しい。

どこかで起こった出来事を概念化して認識していたのは、無意識の自己防衛のためだったのではないか、と気づいてしまった。

 

私は東日本大震災で特に大きな被害は受けていない。だから、私が震災を語ることはできない。震源地からも遠く離れているので、学校がしばらく休みになったくらいものだ。

私は、まだ電気も戻らないうちから、むさぼるように被害状況を調べた。携帯のワンセグで動画を見てしまった。テレビには絶対うつらないような、むごい映像もみた。震源地から遠いのに、はっと目を覚ますレベルの余震がしつこくしつこく続いていたため、もしかしたら自分も朽ちる「モノ」になるんじゃないかと震えていた。5月に吹奏楽定期演奏会を控えている状況だったので、余震のがたがたという音をかき消すために、とりあえず音源を爆音で何度も聴いた。おかげで、南風のマーチやライヴリーアヴェニューを聴くといまだにちょっと怖くなる。

私は、画面を通して傍観しているにすぎないし、そして自分の意志でみていたのだ。でもやはり、怖かった。これって、突然逃げられない状態で被災し大切な人を喪った人からしたらあまりに身勝手な恐怖だと思う。

 

だが、そのあと2年くらい、どこかの空間にひとりでいられなくなったというのも事実だ。体調がよくないときだと未だに怖い。朝まで怖くて眠れなくなる。何の被害もなかったのにこんなになっている自分が恥ずかしくてたまらなくて、そして被災者に申し訳なくて、それを誰にもいえなかった。

いま、ここではじめて懺悔する。こんなことどこかに吐き出すべきでもないんだろうし、そして自分で処理しなければいけないことでもあるんだろうけど。愚かだ。

 

いまでも、緊急地震速報や携帯のアラート音を聴くと身体が硬直する。その音を聴くより突然なにかに襲われた方がまだ正常な判断が出来そうだと考えて、携帯の警報は切っている。下宿のテレビをめったにつけないのも、それが原因だ。誰かとラインしながらテレビを見ることはできるけど、ひとりで見たいとは決して思えない。

数年前に、当時のテレビ放送の様子をみたときにも頭が働かなくなった。未来からみているのだからその速報がいつ流されるかというのはわかっているというのに、それでもその速報の音をきいたらやっぱり駄目だった。

 

客観的にみたら、これは典型的なPTSDだ。

俳優が命を絶った件の報道に慎重になるべき理由もここにあるのではないか。過去のトラウマを引き出してしまうかもしれないし、詳細な報道によって新たなトラウマを植えつけてしまうかもしれない。彼の悲しみなんてわからないけど、それでもきっとどこかに傷つく人はいるのだろう。

 

ほとんど被害もなかったくせに、いまだに震災を引きずっているということは人生の汚点だと思っていた。自分の愚かさの象徴のようにすら感じている。それはもちろん今もだ。でも、それを恥じている限りは、先日の放送で傷ついた人をも恥じることにつながるのかもしれないと思った。そんなことはない、んだけど。

大学の専門もあってか、自分以外の人が傷つくことに対しては敏感すぎるくらいだと思う。客観的な尺度による程度なんて関係ない。そのときその人がどれだけ衝撃を受けたかということが大事なのだから。

でも、自分が確実に9年前に喰らったダメージは絶対に認められないし認めたくない。いまも苦しむ人たち、亡くなった人たちに対する申し訳なさしか浮かばない。

 

 

 

私が3歳まで過ごした街は、高速道路の向こう側かこっち側かで運命を分けた場所だ。家族は、私がその街のことを全く覚えていないと思っている。でも、私の脳には(きっと多くの改ざんがなされているのだろうが)残っていた。そして、私がもしその街に住み続けていたら通っていたであろう中学校は高速道路の向こう側だったということも知っている。さらに住んでいたころには高速道路がまだなかったので、10年はやく震災が起きていたら、もしかしたら……。

浪人する直前の3月に、図書館で勉強をすると嘘をついて外出した私は、電車に乗って記憶をたどりにいった。私が保持していた記憶はおおむね合っていた。でも、そうだと思い込んだだけなのかもしれないから、これもしまっておくべきことなのだろう。

自己弁護のような後だし、我ながら見苦しい。

 

 

私はブログをどのように位置づけているのだろうか。みられることを意識しているようで、していない。あとね、あんまり関係ないようでいて関係があるけど、もう勉強したくなくなるときがある。知りたくないなと思うこともある。まあ、これは言い訳です