vbnm1005の日記

恥をかき集めた

「小さな田舎」

 春から、東京のそれなりに大きな規模の会社で総合職として働いている。
 つらい。やめたい。けど、定年まで稼ぎ続けられる人間でいたいから、今の自分の生活を守りたいから。やめられずに、若い時間と心身の健康をすり減らしている。

 

最後に、私の今年の目標を唐突に述べて終わろうと思う。「トーキョー」を概念として捉えなくなること。「トーキョー」に吸い上げられた友達がはるか遠いところにいってしまった錯覚を、もう抱きたくない。でも私はやっぱり、「トーキョー」をしらずに死んでいく可能性の高い人間なのだ。 梅田よりも、新宿や渋谷はずっとずっと難しい。人にぶつかってしまう。立ち尽くしているときに声をかけてくる世話焼きな人もいない。

トーキョーとGW - vbnm1005の日記

 

 上記の記事で、東京という都市への実感のなさをつづってから、まだ2年も経っていない。ここで出てくる新宿やら渋谷は、もはや生活圏内である。今では、東京23区内に顔なじみになった飲食店も多くあるし、地名や路線を耳にするだけで相手の生活レベルをなんとなく察することができるようになった。なってしまった。
 それと同時に、東京が想像の都市とは違うことを察した。東京は田舎の対局的な存在として位置づくわけではないのだ。簡単な二項対立で物事は語れないというのを、散々大学院で研究したというのに、お恥ずかしい限りである。
 そもそも私は、丸の内あたりと池袋と、あとは歌舞伎町くらいしか知らなかったのだ。三鷹より西側とか、赤羽よりあっち側とか、駅から多少離れると東北の国道沿いとあんまり変わらない風景が広がっていることも知らなかった(まあ、そこから都心へのアクセスが良いから全然東北とは違うんだけどね)。まあ、風景云々は些末なことである。
 結局、東京だからといって、田舎的なものからから必ずしも逃れられるわけではない。会社で「小さな田舎」を作っているだけなのだ。地縁に由来しない田舎。組織という仕組みという宗教に入信することで完成する田舎。

 私は、田舎的な場所に行くと結局「変な人」になってしまうのだ。京都にいたとき、過去の話として語っていたはずの、社会不適応の状態にまた陥っている。
 しかもあのときとは違って、どうふるまえばいいか、という答えを知っているから余計にきつい。「普通」で居続けたいという強い意識が、自分の欠如している能力への解像度を無駄なほどにあげすぎてしまった。もう、道化で居続けるしかない。周りだけじゃなくて、自分も騙さなければいけない。
 さらに、嫉妬されうるほどの経歴を身に着けてしまったのは致命的だ。もちろん、そういった環境にいられたからこその出会いもあったし、自分の可能性を感じられたし、後悔はない。
 ただ、私のようにスペックにかなりの凸凹がある人間にとって、「オマエには無理だろ」的な雰囲気は、期待されない分居心地が極めて良かったのである。一番スペックが低い部分(凹部分)に合わせた期待値だと、凸部分が注目されたときに意外性も相まって評価もされやすい。逆の状況だと、なんでこんなこともできないのか、ということになりかねない。手を抜いているのではないか、とも思われうる。私としては、限界に近いのに。「普通」っぽく見せかけるためのふるまいと、ぱっと見の経歴のせいで、飄々とやりこなしていると思われやすいのもわかっている。
 自分ひとりの力で、自分自身の異常性を扱いきれる自信がなくて、なんだかんだでレールから逸脱したことはない。経歴にふさわしい能力だけを上手に見せてごまかしつつ、できないことを死に物狂いで頑張るしかないのか。
 私は、マイナスの部分をゼロ地点まで持っていく努力で人生を消費してしまうのだろうか……。

 横並び、金太郎飴的な人材、そんななかで私は不必要なスパイスになってしまうのだ。

 私がいる部署は、ブラックな環境ではない。むしろ、世の中的にみたら和気あいあいとしていて、ホワイトな環境なのだろう。
 だけど、日本の義務教育の管理型教育の成れの果てとでもいうべきなのか、宿題が大量の自称進学校的な空気ともいえばいいのだろうか、とにかく窮屈で気が狂いそうになる。雑音やら電話が多い自席で8時間座りっぱなしなのが耐えられない。時間に融通が利かないのも耐えられない。なんとなく常に監視されているのも、ちょっと工夫や努力をしても横並びゆえに揺りもどされるのも、とにかく肌に合わない。

 くだらないと一蹴して、躊躇なく離職しまえたら、楽になれるのだろう。
 もっと業務量自体が激務でも、在宅が週に何度かあったり、休憩時間が自由にあったり……。こういう特権階級的な環境を手に入れられたらもっとマシな状況になるだろう。
 だけど、そんなに簡単なことでもない。今の環境を捨てても、まともな収入を得られるのかといったら厳しいだろう。今付き合っている友達の多くは、大体ちゃんとした収入があるか、生活基盤がしっかりあるか、あるいは、どんな生活になっても自分自身がぶれないか。相手の懐事情をいやらしく蔑む友人はいないけれど、だけど、だからこそ、私が貧困状態になったら相手に気を遣わせるだろうし、どんどん話も合わなくなって疎遠になってしまいうるのではないかとも思う。なにより自分が耐えられない。

 会社のなかで随一の穏やかな部署にすら適応できず、TOEICは500点あるか怪しい人間なんて、どこにいってもどうせうまくいかないんじゃないかと自己否定、卑下の感情ばかりが噴出して、頭がフリーズする。

 怖い。どんどん体調が悪くなり、毎日理由もなく涙が出たり……。客観的に見れば一刻もはやく退職すべき状況まで追い詰められながらも、レールから外れられない。
 取り繕うことがうまくできなくなってきて、周りを困惑させているのもわかっている。私は道化がふさわしいのに。

 「小さな田舎」で酸欠になりそうだ。

 

 追伸:1年半前の私は予言者である。

田舎者にも適性ってもんがあると思う。(……中略……)私の「個性」に、身近な人以外は誰も関心をもたない環境にいたほうがたぶんいい。田舎に戻った友人たちが、ゆったりとした時間の流れのなかで、どんどん世界や思考を拡げ、充実している様子を見るたびに、私にはそんな才能がないということを否応なしに実感させられた。「個性的」が「異端」として処理されることになり、気づけばこの10年くらいの足掻きを無に帰すことになるだろう。

「田舎」と「個性」を捨てる - vbnm1005の日記