vbnm1005の日記

恥をかき集めた

没入

おととい、親友Mのバイト先の手伝いをした。ちなみに今日も昼過ぎから行く。手先が不器用な私にとっては、単純な「軽作業」そのものが難しかったし、3時間慣れない環境でスマホなどをさわれずに集中を強いられるのはわりときつかった。さらに、私がやった作業はあまりに下手だったので、私の無能さはこうして今後もきっと社会にとって迷惑なんだろうなと想像し、通常営業の卑屈な気持ちになった。

でもバイトが終わったあといくらかアタマが冴えていたから嬉しかった。

そしてなにより、単純作業をしているときの自分の感情の起伏がとても面白かった。以前、座禅体験に興味があって調べていた時期があったんだけど、その時に見つけた体験者の感想に近い揺れ動きの仕方をしていた気がする。座禅という手段だったり、宗教施設という特別な場所に頼らなくても、その状況は擬似的に体験できるのかもしれない。こういう言い方をすると、短絡的な思考を呼んでしまう気がする。たとえば、やっぱり仏なんていないとか、結局静かな環境でその静けさに集中していれば同じ結果が得られるとか、そういうやつ。科学的に~っていうやつ。

いま我々が信じている「科学」って本当に科学なの?科学的に正しいってなに?いろんな角度からものごとを考察しようとすると難しくなるね。

ま、いっか。

 

そういえば、楽器を1ヶ月ぶりに吹いたら、なんか変だった。音がでないというわけではなく、ひたすら違和感をおぼえた。定演前、楽器を自然に持てたし、無意識のうちに構えていた。吹こう、と意識しなくても音が出た。決して思い通りに音を出せていたわけではないけど、意図はある程度反映できていたと思う。気持ち悪い言い方をすると、自分のからだの一部、みたいな感じだったのかな。この感覚は、高3のときにもあった。人生で2回。どちらもすぐ楽器を離れることになるタイミングだったので、その感覚と私は2,3ヶ月ほどで切り離された。

じゃあこの2回に共通点はあるのか、と考えると、どちらも楽器しか考えていなかった時期だった。高3のときも、3回生の定演期も、どちらも楽器を吹くことに責任感をおぼえていた、と思う。吹奏楽のことばかり考えていた。そしてそのどちらも決してプラスの感情が動機で楽器に熱中していたわけではなかったし、あとになってみるとあのときしんどかったのかな、とちょっと思えてしまう。

とにかく下手だから、自分がこの場所にいるためには吹けるようにならないと!という焦りしかなかった。そのどちらも、空回っていてほとんど個人練習をしていなかったので本末転倒だった。ばかだな。自分の存在が認められるため、いやむしろ、自分の存在がなるべく否定されないようになるために楽器を吹いていた。

その時期は世界が吹奏楽部・吹奏楽団しかなかったので、必死だったのはいわば生命維持のため、だ。そりゃ没入もできるはずだよ。何も考えずに、とけるように物事に没入したいのに、こんな感じでしかできないのは嫌だな。

 

先述の親友Mのバイト先の方にサークルを聞かれて、「吹奏楽をやってました」と自然に過去形でこたえたところ、「えっやめちゃったの?」と言われた。「3回生の12月の定演で引退です」って遠い昔のことのように考えながら話したら、「へー!先月引退したばかりなんだね!」といわれた。

めちゃくちゃ驚いた。ものすごく昔のことのようだし、過去の思い出フォルダに格納済みだったから、先月、って言葉の軽さと結び付かなくてびっくりしたの。