vbnm1005の日記

恥をかき集めた

ああああ、雑記

昨日、いやもうおとといになるのか……久しぶりにスーパーに出かけたり、自転車で気晴らしをしたりした。外出は気力を養うものだなあと外出するたびに思う。しかし、なかなか続かない。ガサツなくせにそれなりに神経質なので、外に出たあとの行程が日に日に増えていってしまっているからだ。見えないなにかと戦うというのは、あまりにも面倒くさいものだ。帰宅した瞬間に即ベッドにダイブ、午睡をかまし、目を覚ましたら帰りに買ったスイーツが待っている世界に戻りたい。しかしよく考えると、その行動は疲れすぎて気力体力ともに限界で寝落ち、それに伴い落ち込んだ血糖値をスイーツで爆上げしなければ起き上がれない、という負の理由がもとになっているものである。それを恋しがってしまっている、というところからもいまが非常事態であるということを痛感させられるわ。

ところで、「みんな大変なのは同じだから、悩みすぎ~!」という言葉って、いろんな意味で配慮がないと思う。無限に人を追い詰めるよね。どうしてそれで元気がでる人がいるのだろうか。私は言語に対しても神経質なのか……。

ちなみに私は比較的この状況下においては恵まれている立場なのだが、だからこそ悩んではいけないという強迫観念でがんじがらめになり、ちょっと悩んでいる。なんて甘ったれだ。自己肯定感が低すぎて、頑張っていない自分は無価値だとしか思えないのである。他人がもしそういう思考に陥っていたら、カウンセリングにでも行きなよー!と軽くすすめることだって考えられる。しかし世の中でいちばん嫌いな人間が自分なので、私はどこまでも私を追い詰めたくなってしまうのだ。自分をあまり大切にできない。

 

そんなこんなで、家にこもっているうちに気力を失い、それでいっそう外出しなくなる…という悪循環に陥っていたのであった。しかし、家にあるありとあらゆるレトルト食品を食べつくしてしまい、どうしようもなくなったのをきっかけについにその負のループがたちきられた…。

あ、私3点リーダー使いすぎ。理由は、間というか余韻というか、テンポを落としたいからだ。リットというよりかは、ルバートなのかもしれない。リアルで話すときの私は早口だし、全日本ワープロ競技大会で全国大会に出場した経験があるので(ドヤァ)PCの入力もそれなりに早い。息継ぎが必要なのだ。

 

私は5月に入ってからおとといまで、布団と泥のように一体化していた。正確にいうと、牛乳を切らしたときだけ、正気だったら外出はしない服装で徒歩2.5分のコンビニに行きはしたけれど。でも、それも2回だけだ。

論文を読むとか、院試の勉強をするとか、授業の準備をするとか、そういう生産性のある活動はもちろんしていない。その罪悪感で死にそうになっていた。じゃあ頑張れよという話なのだが、世の中はそううまくいかない。時間はたっぷりあるのにねえ。

 

そして、フィクションの世界も全部拒絶していた。私は、物語に異常に共感してしまうというか、世界観にのめってしまう傾向があるので、よほど元気なときでないとみられない。しかもそういうときであっても、ツイッターを見ながらとかしょうもないパズルゲームをしながらとか、なにかしらの手段で集中をあえて散らさないと結構きつい。推理小説は、最初のほうを読んで登場人物を把握したら、最後に飛んで結論を知ってからでないと怖くて読めない。わりと重症だ。読書家だし映画も大好きである母は、そんな私の態度をみていつも怒っていた。ホラー映画も好きで大胆な性格の母からしたら、私のそういった側面は理解できるはずもない。当然だ。帰省するたびに私が好きそうなコンテンツをすすめてくれて、実際その内容は面白いので楽しむのだが、毎度私の態度に母は苛立つのである。楽しかったという素直な感想を告げても母は少し怒っている。結局うまく説明できないまま、なんとなくながれる険悪なムードがいつも怖くてしかたない。部屋に帰ったあと、自分のふがいなさにすごくへこむのはもはや様式美である。さて、こんなご時世なので、母はたくさん映画や物語をすすめてくれるのだが、この状況下で私がひとりでコンテンツを完走できるわけもない…。やはり母は怒っている。というかもはや私を軽蔑しているのだろう。「あんたはどうせ見ないだろうけど~」という枕詞つきのラインを見ると、自分の弱さを毎度実感させられて申し訳なくなる。私は視野が狭く四角四面なところがかなりあるのだが、それに対して母はいつも「物語や映画をみないから視野が広がらないんだよ」という。本当にそうだな、と実感している。でも、どうしようもないのだ。どうしたらいいんだろう。

 

最近は、既習のコンテンツや起承転結のない動画などをみている。だから私はいつまでたってもダメなんだと常に感じながらなので、楽しさが減衰していくのが悲しいところだ。アマプラ、ネトフリなどありとありゆるものに家族が登録しているというのに、勿体ない限り…。貧乏性も容赦なく自分を追い詰めていく。そもそも、元をとらなきゃいけないとか、効率的とか、そういう思考ってとても「やばい」とは思う。

空気もよめないし人に気をつかえないくせに、どうしてこんなところは敏感なんだろうか。繊細、ではないはずだ。根本的にガサツなので。残念ながら感性が豊かなわけでもないというのは、この凡庸な文章力でわかるだろう。

 

負の思い出と紐づけされている音楽も少々苦手だ。

先日おすすめ動画に高校のコンクールの曲が出てきたので、なにげなく開いてみた。好きな曲であるはずなのに、1音目でうわっとなった。このブログで、いや大学生になってからはじめて、私の中で地雷ワードである「コンクール」について触れてみようと思う。大学生になってからはコンサートバンドに所属し、避けてきた話題だ。

3のときのコンクール。ちなみに高2のときのコンクールの曲も同じだったのだけれど、高2のコンクールは先輩が優しかったのと、結構吹奏楽に対してしらけた気持ちを抱いてしまっていた時期なので、あまり記憶にない。だから、この曲を聴くと私は中3になる。

出だしが低めの音で、長三和音。私は13小節目まで出番がなかったのだが、それでもいつもその部分では身を固くしていた。ああ、恐怖がよみがえってきたよ。それも映画がみられない理由と同じだ。他人の立場を想像して、入り込みすぎていたのだ。デダシデハズシタラ、オシマイダ。

出だしの練習だけで半日近く費やした合奏もあった。外した人は怒られていたし、そのあと先輩たちがちょっと愚痴をこぼしていた。…ような気がする。私の妄想かな。そうであってほしい。とにかく先輩たちはピリピリしていてとてもこわかった。最上級生の先輩が、気に入らない後輩を邪険に扱っている場面を目撃したこともある。でも、高校生の部活にまぜてもらっている立場の中学生は、気にしていないふりをしながら、おびえつつもピエロとして狂っているしかなかったのである。

たしか、本番は最上級生の先輩のうちの誰かが思いっきり外していた。出だしずれたのが高3でよかったな…だれも怒られずにすむ…とコンクール本番に思ってしまったのは、いかに恐怖に支配されていたのかという象徴。

この曲の最終楽章は特に大好きだ。私はカトリック系の学校に通っていたので、学校に聖堂があった。練習場所の真下にある聖堂にいって、部員みんなで最終楽章を歌っていた。合唱部でもないし、みんな歌もうまくもないし、声が妙に通る地声そのままで歌唱している自分の声が気持ち悪い。でも、あの時間は好きだった。日の当たらない階段のじめじめしたにおい、聖堂のろうそくのにおい、夏でもなんかひんやりしている独特のあの空間をいまでも簡単に呼び起こせる。

私は歌が下手だ。そんな私がコラールを吹きこなせるのか。無理である。クラリネット4人、フリューゲルとアルトが各1本のメロディーに、低めの音スタートで途中から乱入する箇所があるのだけれど、それが特に死ぬほどへたくそだった。怖くてしかたない。コンクール直前まで延々と外しまくっていたのでとても困らせていた気がする。私は進学クラスにいたので、放課後の補習などがあったのだけど、そのときにたびたび先輩が教室の後ろから見張りに来ていた。正規の授業ではないものはなるべく休め、とこっそり言われた。どうせ補習なんて聞かずに消しカスで練り消しを錬成しているだけなので休んでもよかったけど、常用漢字が怪しい先輩からのささやきに応じるのは負けだな、と思った。なんの意地だ。クラス行事の準備などは、とてもじゃないけど参加できなかった。クラスの雰囲気が良いときは、いっつも怖い先輩きてるもんね~と笑ってもらえた。悪いときは…。以下略。

根性論がどうしようもなく蔓延している高校生の部活で、たったひとりのオーボエ奏者としてそれなりに責任のあるパートを任され、さらに同学年がいなかったというのは、私には重荷だったのかもしれない。先輩としても、下手だし生意気なのに、ひとりしかいないからコンクールメンバーから外せなかったのは嫌だっただろう。先輩にとって最後のコンクールでの写真撮影のとき、私が近くに写り込むのを本当に嫌そうにしていたあの横顔がいまでも忘れられない。

そもそも、その前年のコンクール県大会では怖すぎて身体が硬直し、1音も音を吹けなかったような人間がうまく吹けるはずもないのだ。結局いつまでたっても緊張のコントロールはできず、年々トラウマが蓄積していっただけだった。

 

私はコンクールが嫌いだという立場にたち、ひたすら批判することによって大学3年間はお茶を濁してきた。実際コンクール界隈に出入りしている大人たちの胡散臭さは半端ないし、それに傾倒している奏者もどうかしているとは思うけど。

でも、当時の私がそれなりに本気だったのは動かしようのない事実だ。そして、いまでもこうしてくすぶりつづける思いがあるのも事実である。コンクール界隈のいやな感じが一切ない、顧問に絶大な信頼をおいていたというのもある。

私は現役の時、あと少しで支部大会というのを4回経験した。自分が最上学年になったら、その「あとちょっと」を詰めたいと心底思っていたのだ。今思うとあまりに傲慢で笑える。結局高3の夏になる前に、心が折れて退部届を出してしまった。

 

いろんな期待を無に帰した。どんなに恩を仇で返しても、どうしようもない反抗をしても、向き合いきれずにたびたび逃げても、なんだかんだ最終的にはつなぎとめられていたのに、私は自分から全部を手放したと思う。吹奏楽や楽器への情熱も。

 

あれ?何の話をしていたっけ?

眠れなくてというよりかは、半分躁状態かのようになりながら、目を血走らせて膿を吐き出しているだけだ。体裁を整えようという気持ちはさらさらない。

 

 

 

私はピアノの調律師になりたかった。手先が器用だったらリペアマンにもなりたかった。将来は音楽に関係のある仕事をしたい!一生真剣に向き合いたい!ってキラキラしながら思っていたときもあった。進学クラスにいたのもあったし、一人っ子なので家族の目が気になったのもあって、四年制大学に進学するべきだと思いその進路は結局諦めた。

そのあと、自然と音響物理学を専攻したいなと思いはじめた。はじめて自分から湧き出た希望だった気がする。初学者向けの簡単な本も買った。

でも、「目指すべき」国公立大学にはその専攻がなかったのでやめた。さらにその大学は、理系のほうがはるかに入試難易度は高い。理系科目は嫌いではなかったものの非常に飲み込みは悪かったので、結構いばらの道になるなと思った。その時点でまったく学力がなかったくせに、その大学にいかないと自分は駄目なような気がしていたので、自然と諦めた。結局浪人して、奇跡ともいえるほどセンターで爆死し、こうして遠方の私立大学に通っているいまの身からすると、あまりにくだらない悩みだと思う。自分のやりたいことがある、って純粋に思えることってこの先にあるのかな。

皮肉なことに、視野が狭くなっていたのは、吹奏楽に熱中しすぎていたせいでもあるのかもしれない。お盆と正月、それとテスト前にしか休みがなくて、オープンキャンパスに行くのもあまり望ましくないとされており、進学クラスの部員も限りなく少ない状況の中で、私は上手に考えられなかった。反抗して部活から足が遠のいた時期も結構あったけれど、そんなときは現実逃避にすぎず、文理選択のタイミング以前に真剣に進路を考えたこともなかった。

 

そのあと、それも結局部活での経験がきっかけで、「教育学」を勉強したいと思うようになった。その話はとてもクサいし恥ずかしいので割愛する。そして今に至る。今の充実レベル、京都の環境、いろんなことを鑑みるといまの人生が一番まあよかったんじゃないかなとは思っているけど、それでも自分が選ばなかったパラレルワールドに思いを馳せることはときどきある。

 

パラレルワールドに気を取られてしまい、人文学的アプローチによる音楽学で卒論をかいて、音楽社会学で大学院進学を目指してみようかと思った時期もある。でも私は歴史も、芸術全般もとにかく弱いから、どんなテーマを考えようとしてもあまりピンとこなかった。カン、というのはある一定の知識がないと働かないものだ。そもそも、そのようにして試行錯誤する過程で、私は「音そのもの」が好きなのであってその文脈には興味がないということに気付いた。考えてみると、標題音楽を作曲者の理想的なかたちで享受したことはないのだ。オケを聴いても、楽器そのものの特性を生かしながら「よく鳴る」譜面、そしてその音に興奮しているだけだ。パラレルワールドはきっぱり諦めるしかないんだな、って悟った。それが3回生のおわり。

サッカー選手を自然と諦める子どもと同じだ。私もやっと大人に近づいたのだろうか。

 

教育学やその周辺を勉強することへの熱意はそれなりにあるし、ある程度の問題意識もある。いまからエンジンが無事について熱中出来たら、パラレルワールドのことなんてすっかり忘れるだろう。だからこそ、いま書き留めておきたくなってしまった。

あ、5月布団と一体化していた分際で、エンジンがついたら~という仮定をそこそこ実現可能性が高いものとして考えているのは、あまりに傲慢なのかもしれないけれど…。

 

あっ、こうして思いの丈をひたすら打ち付けていたら、真っ暗だったはずの外もそれなりに色彩をもちはじめてしまった。恐ろしい。

もう大人なのに、夜通しおセンチになっていたのは本当に気持ち悪い。認めたくないけれど、アイデンティティの確立に失敗したのだろうか。断固として認めません。

 

今から私は、カーテンをひき、光を遮断して、疑似的な夜を生み出すこととします。おやすみなさい。

ああ、金曜朝までの課題は諦めよう!うん、さわやかな朝だ!

あれっ、いま何時?もうわけわかんないわー。

 

(6000字を超えた)