vbnm1005の日記

恥をかき集めた

むりをしない

最近、無理にしたくないことをするのをやめた。そして、無理をするのをやめたら、多少の無理ができるようになった。一見矛盾するようだが、そうではない。したいことに繋がるものであれば、ひとふんばりできるようになったというだけだ。その気力は無理をしないことでしか得られない。

咳喘息を放置していたら、気管支喘息に移行した気がする。足の指の骨折を放置していたら、うまく曲がらなくなった。歯科の定期検診をさぼったら、歯肉炎になった気がする。伸びる髪の毛を放置していたら、まもなくヘソまでいくんじゃないかというペースで伸びている。肩こりを放置していたら、背中が重くなった。これらは多少無理してでも解消すべきことなんだろうけど、この騒ぎのせいで先延ばしになってしまっている。そろそろいいかな、という塩梅が私にはわからない。

最近、具体的な言葉がとっさに浮かばなくなってきた。22年以上上辺で薄っぺらい発言を繰り返してきたはずなのに。だけど、2ヶ月やめたら完全にできなくなった。いままで必要以上に無理していたんだと思う。努力すれば必ずしも報われるわけではなくて、よりいっそう向かない道を生きなければなくなることもあるのではないかと思う。

野暮な言葉を交わさなくとも意思疎通をはかれる親友とは、楽しく会話が弾んだ。それでいいしそれがいい。

言葉へのこだわりと言葉狩りは、似てもないし全く違うことだと思うんだけど、一般的にはそうではないのかなあ。ある身内が、推測をもとに「絶対それは〜の影響でみられるようになった現象だよ」という旨のことを言った。絶対、と言い切れる自信が羨ましい。嫌味ではなく、本当に。でも、言葉としてあまりに軽薄な印象をうける「絶対」、絶対そうだと思っても絶対使いたくない。そういうことをいうと言葉狩りだと言われるのがわかっていたので飲み込んだ。ただ、「それ」は「確かに★★によって加速したけど、★★が起こったきっかけにはまた別の原因があるんじゃないのか」、と一般的な事実を言ってしまった。案の定、言葉狩りだと言われた。そのとき、言葉狩りという言葉の誤用ではないかなと思ったけど、そうしたらもっと面倒なことになるとわかっているので、既読無視した。

いつも面倒くさい人間だ、と切り捨てられる。私の知識は狭くて、役に立たないことばかりみたいなんだけど、そもそも役に立つことってなんなんだろうか。役に立つ、という薄ら寒い言葉をあっさり言えてしまうのはおそろしいことのように思う。なぜ人の役にたちつづけなければいけないのだろうか。そうでなければいけないかのような錯覚が、むりをさせるというのに。

上辺だけ理解があるふりをして、それすら一種のステータスとされてしまう悲しさよ。

むりをしなくなったら、もやもやが自然と晴れることが増えた。突然過呼吸になることが減ったという客観的事実から気づいただけであり、すごく晴れ晴れしてるとかではない。たぶんこれが一般的な「普通」の状態だ。たしかに、どうしよう、と不安や焦りを抱いてもどこかにきえてなくなる。でも、せっかくできたその余白を、もやもやの消化のために使いたくない。

だから私は久しぶりに言葉をおこしてみた。

 

わたしはむりをしない。無理するということを意識しているからこそ出る言葉。二項対立。