vbnm1005の日記

恥をかき集めた

1本10円の浪漫

一人称的視線からなにかを語るときは常に皮肉やフェイクを混ぜていたい。でも今日は、そういうのは抜きでいこうかな。

誰かに電話でもかけてみようかとも考えたけど、こんな時間に楽しくもない話を聞きたい人なんて誰もいないだろうし、なにより声をつまらせずに話すことができる自信がなくて、やめた。そもそも、誰か特定の人に話したいわけではなくて、自分では抱えきれなくなったもの、そして向き合わなければならないものを、ほんの少しでいいからどこかに捨てたいのだ。消そうとしたいけど消せなかったから、捨てたい。そういうわけでネットの海に、濁り*1をもたらしてみようかと思う。

 

私はどんなときだって、自分の本音から目をそらしている。ときには抽象化したり、さらにそれを別の具体に落とし込んでみたり、すり替えてみたり、完全になかったことにしたりする。このように虚構のなかに自分を放流し、そこにある快楽に溺れているだけだ。誰かが防衛機制と名付けてくれたことによって、そんな自分もひとまずギリギリ許されている。私は誰に許されたいのだろうか。

 

私が最も苦手な人間は、ほかでもなく自分自身だ。私は、私がした悪行を具体的に知っている。自分を好きになりたいと言っているけど、そんなのはうそ。自分が自分を罰することで自分が自分としてかろうじて形を保っているにすぎないのだ。

眠ろうとすると、抑圧されていた記憶らしきものが瞼の裏に突如現れて怖くなる。どうせそれは脳がつくったイメージにすぎず、おそらくフィクションだ。それなのに私は自分がなにかを被った側だと錯覚し、多少の憐れみを抱いてしまうのだけど、実際はむしろ加害側なのではないかと最近気づいてしまった。

罪を憎んで人を憎まず。なにか悪いことをしてしまった人にはなにかしらのバックグラウンドがあり、それはその人自身にとってどうしようもなかったことなのかもしれない。罪ともに人を突き放してしまったら、どこにも救いがなくなってしまう。私は大学で、そんなことを考え、知ろうとしている。

そのくせに、私は私を許せない。嫌いで嫌いでどうしようもない、簡単に死なせたくない。苦しんで生きていてほしい。本当に許せないというのはそういうことなのだ。どんなに頭では人を突き離すのはよくないことだとわかっていても、憎しみが勝ってしまう。

私を私が二人称的視点でとらえるときは、苦しめ苦しめ苦しめと思っている。一方、一人称視点からすると苦痛は苦痛なのだ。

すさんできたなと思うと、私はいつも意識的においしいものを食べにいく。だけどその五分後には、あんな嫌いなやつにお金を使ってしまった、私は親不孝だ…と気が滅入ってどうしようもなくなる。

 

つまりは自分をいためつける言動が快楽になってしまえば、ある程度の苦痛からは逃れることができるというわけだ。いろんな私にとって幸せをもたらすのだから。

これは最近になるまで気づけなかったことだ。理由がわからなかったのだ。だめだなと思いながらなので、より一層自分が嫌いになり、衝動が強くなる。そうして逸脱していく自分を見かねた優しい人と、守れない約束を無理やりとりつけるはめになり、案の定守れなくて人を裏切る。怒っている人も、あきれている人もいた。

でもまあいいやと悠長に構えていたところ、なんかそれではだめなようなので、20歳になったあたりからとりあえず自分を「大切に」してみることにした。そうしたら、危うい均衡がガクッと崩れてしまい、心身のバランスを崩した。それまで案外健康だったのに、周りが思う「自分を『大切』にする像」が私を蝕んだ。すごく恨めしく思った。でも、これ以上罪悪感を抱くのもきつかったので、もうこれでいくしかないと考えた。

そもそも、私にある程度の善意を向けてくれる人に対して、恨みを抱くようなやつが健康なわけもない。私は平凡な異常者だ。

 

勉強の進みがあまりにも芳しくなくなってきたので、一時的にでもそろそろすきなだけ自虐的な態度になるしかないかもなあと思った。

でも、せっかくここまで「自分を『大切』にしたのに」という貧乏性が炸裂したのも事実。そこで、自分の愚かさをこうして晒すというかたちで自分をいためつけることにしてみました。すっきりしたよ。ありがとう。

 

1本10円のロマンにときめきつづけることは、「子ども」のすることなのかもしれない。でもそれはそれでありだということを証明したいという気持ちもなきにしもあらず。と、いいつつもなによりの願いが「普通」になることなのだ。そうしたら、私の「子ども」っぽさにだれも気づかなくなるはずだから。

*1:どうでもいいけど、綾鷹にごりほのかの不自然な薄さが後味としてのどに張り付く感じ、嫌いじゃない。